明治 6年 | 5月28日 埴生・殿谷・南八田・天引・大河内・法京、外6区(旧東本梅)の小学校を埴生に創設し、保惠館と称する。 |
明治 8年 | 大河内・法京は組合を分離して大河内に培達校を設置する。 |
明治 9年 | 旧東本梅村の6区、組合を分離して南大谷に崇広校(明治20年南大谷尋常小学校と改称する)を設置する。 |
明治12年 | 天引は単独に組合を分離して天引小学校を設置する。 |
明治13年 | 埴生・南八田・殿谷3区は新校舎を建てて埴生小学校を設置する。 |
明治19年 | 小学校令改正の結果埴生尋常小学校、天引尋常小学校、大河内尋常小学校 と改称する。 尋常1学年より4学年まで2学級に編成して教授する。 |
明治36年 | 埴生尋常小学校附設村立女子手芸学校を創立する。 |
明治41年 | 義務教育6ヶ年に延長と共に、埴生・大河内・天引の3小学校校を合併し、西本梅村 一円を西本梅小学校の設置区域とする。 天引、大河内両分教場に尋常4学年まで単級として収容する。 |
明治44年 | 高等科を設置し、西本梅尋常高等小学校と改称する。 合併の結果通学距離の均等を期する為移転する。 |
大正 6年 | 西本梅尋常高等小学校附設西本梅農業補習学校を創立し、本校、天引・大河内両分教 場の3ヶ所で夜間授業を行う。 |
大正 8年 | 農業補習学校並びに手芸学校を廃し、船井郡西本梅村実業補習学校を創立する。 |
大正13年 | 8学級に編成し、両分教場は3学年まで収容する。 |
大正15年 | 西本梅村立青年職業訓練所を併設する。 |
昭和16年 | 西本梅国民学校と改称する。(大河内・天引に分校を置く) |
昭和22年 | 西本梅小学校と改称する。 |
昭和30年 | 旧園部町・旧摩気村・旧西本梅村が合併して園部町となり、園部町立西本梅小学校と 改称する。 |
昭和33年 | 旧東本梅村の内、若森・南大谷が園部町に合併し、該当児童は西本梅小学校に編入さ れる。 |
昭和34年 | 南八田の丘陵を開き、新しい校舎を建設する。明治6年、同12年以来の古い歴史を 持つ大河内・天引の両分校は本校に統合される。 |
昭和61年 | 教室棟(三階建)、管理棟(二階建)に改築し、3月に竣工し、現在に至る。 |
昭和63年 | 自然の広場(アスレチック施設)が完成する。 |
平成 元年 | 7月 屋内運動場が完成し現在に至る。 |
平成10年 | 京都府健康教育推進優良校健やか奨励賞を受賞する。 |
平成12年 | プールが完成し、現在に至る。(7月) |
平成14年 | ブランコが新設される。(8月) アスレチック施設の補修を行う。・・・吊り橋・ターザンロープ(8月) |
平成15年 | 障害児学級が新設される。(4月) |
平成16年 | 食堂棟(ランチルーム)・外トイレ・砂場が完成する。(3月) 「埴生断層」の説明看板が設置される。(本梅探友会)(11月) |
平成17年 | 研究発表会(国語:伝え合う力の育成)を開催する。(2月) 体育館屋根の塗り替え工事が完了する。(3月) |
平成18年 | 旧園部町・日吉町・美山町・八木町が合併して南丹市となり、南丹市立西本梅小学校と改称する。(1月) |
<現状概略> 校舎は70年余りの間、埴生地域にあったが、昭和34年に小高い丘の現在地に移された。今の校舎は昭和61年に全面改築されたもので、教室棟を南に配置し、玄関にステンドグラスを使うなど明るい建物である。 体育館も平成元年に全面改築され、緑色の三角の大きな屋根が丘の上にそびえている。また、平成16年3月には、全校児童が一斉に食事ができるランチルームも完成した。 校地は1万余平方メートルの広さがあり、PTAや教育後援会、更には地域あげての奉仕作業などにより植樹やアスレチック広場の整備が行われ、花と緑に囲まれた美しい学校である。 |
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<校区の状況> 本校は園部町の中心部から南西へ約10km、府道大河内〜口八田線と篠山から亀岡に通じる国道372号線の合流点近くの高台にあり、南に丹波の名峰『半国山』、南西には四季を通じて訪れる人の多くなった景勝地『るり渓』がある。 近年は、民間資本によるゴルフ場や宅地・別荘地がつくられたり、フラワーガーデンや癒しの森温泉などの町の施設や、京都府の少年自然の家が整備されたりするなど、るり渓一帯はその姿を大きく変えている。また、京都市内から丹波町までの京都縦貫自動車道や篠山町を通る舞鶴自動車道の開通後は校区を通る車の通行量が増大し、平成6年3月に開通した372号バイパスのため、るり渓散策の車と相まって事故の心配も抱えるようになった。 天引・法京・大河内・南八田・埴生・若森・南大谷・殿谷の8地域からなる西本梅小学校区は、人口1322人、世帯数429戸(平成17年4月現在)で、兼業農家が多く、豊かな自然と素朴な人々の暮らしを支える農山村の風景が見られるこの地域は、昔から屈指の教育村として知られ、今もその精神が受け継がれて教育後援会が組織されているなど、教育に対する理解があり協力的である。 |